さて、Big4が会計監査に精を出している間、コンサル業界ではコンサル専業会社が急速に成長していきました。コンサル各社は組織のホワイトカラーと最高経営責任者に狙いを定めどんどん進化し始めたのです。1930年から1940年にかけて、経営コンサルティング会社の数は、平均して年15%増加しました。1930年に100社程度であった経営コンサルティング会社は、1940年には400社になり、1940年代には年率10%近くで増え続け、1950年には推定1000社の経営コンサルティング会社が存在することになりました。
コンサル物語でも出てきたマッキンゼー社とブーズ社の年表からコンサル会社の急成長を垣間見たいと思います。
1930年代前後のコンサル専業会社の年表
マッキンゼー&カンパニー |
ブーズ&カンパニー他 |
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1929年以前 |
1926年J・マッキンゼーはマッキンゼー&カンパニー会計士・経営工学士事務所をシカゴに設立 最初の仕事は精肉会社の予算・計画業務のコンサルだった。当時は銀行その他の金融機関向けの仕事が多かった。 |
シカゴには他にE・ブーズがコンサル事務所を設立(1914年)。社名はビジネス・リサーチ・サービス社→ブーズ・ビジネス・エンジニアリング・サービス→ブーズ調査会社(1924年)と変わっていく。ブーズ社の初期の仕事は鉄道会社の事業調査や銀行調査の仕事が多かった。 当時は経営コンサルタントとは呼ばれず、経営エンジニアやビジネスカウンセラーと呼ばれていた。 |
1930年 |
A・T・カーニー入社 |
ブーズ社当時のシカゴのスタッフ数は4人に増加 |
1931年 |
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1932年 |
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1933年 |
当時のシカゴのスタッフ数は13人に増加。 M・バウアー入社 |
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1934年 |
当年シカゴに完成した45階建ての超高層ビルであるフィールドビルには多くのコンサル会社がオフィスを構えた。マッキンゼー(41階)、ブーズ(17階)、A・T・カーニー、フライ&アソシエイツ(ブーズから独立)など。 (参考) 当時のフィールドビル(Wikipediaより) 現在のフィールドビル(Googleマップより) ブーズ社はブーズ&フライ調査会社に改名。当時のシカゴのスタッフ数は11人に増加 |
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1935年 |
J・マッキンゼーは顧客であるシカゴのマーシャル・フィールド百貨店に会長兼CEOとして参加。またこの年、会計事務所のスコービル・ウェリントン社と合併。この頃からニューヨークオフィスでは会計監査の仕事を廃止した。 |
ブーズ社はニューヨークに最初の支社を設立 |
1936年 |
当時のスタッフ数はシカゴ22人、ニューヨーク17人、ボストン5人まで増加 |
この頃、鉄鋼業のUSスティール社が経営コンサルティング会社を積極的に活用したことは有名な話。主契約にフォード・ベーコン&デービス社、下請けにロバート・ヘラー&アソシエイツ社、マッキンゼー社といった名の通ったコンサル会社を使っていた。マッキンゼー社の担当は注文処理の改善コンサルだったが、当時のマッキンゼー社の売上の55%を占めるビッグクライアントだった。 ブーズ社はブーズ・フライ・アレン・ハミルトン社に改名 |
1937年 |
J・マッキンゼー死去(享年48才) 外部の専門家をコンサルタントとして会社に迎え始める。ハーバードビジネススクールの教授や大企業の幹部等がコンサルとしてマッキンゼー社に入社した。 |
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1938年 |
ニューヨークとボストンのマッキンゼー&カンパニーとシカゴのカーニー&カンパニーに分割。マッキンゼー社の事業は経営エンジニアリングではなく経営コンサルティングに変更し、会計業務は提供業務から外れた。 |
シカゴにA・T・カーニー設立 |
1939年 |
当時のスタッフ数は18人 |
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1940年以降 |
スタッフ数は1942年の25人から1945年には68人に増加 |
ブーズ社は初期メンバーの一人J・フライが抜けてフライ&アソシエイツ社をシカゴに設立(1942年)。ブーズ・アレン・ハミルトン社に改名(1943年)ブーズ社は海軍の再編成など政府機関へのコンサルを始める。 ブーズ社の初期メンバーであったクレサップ、マコーミック、ペイジットが抜けニューヨークにクレサップ・マコーミック&ペイジット社を設立(1946年) |
■おもな参考文献
『ビジネスの魔術師たち』(ハル・ヒグドン 著 鈴木主税 訳)
『マービン・バウアー』(エリザベス・ハース・イーダスハイム 著 村井章子 訳)
『The World's Newest Profession』(Christopher D. McKenna著)