コンサル物語

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コンサルの成り立ち、コンサルの歴史を知りたい人向けにコンサル誕生からの物語を書いてます

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Big4コンサルファーム設立者の横顔(PWCとアンダーセン)

 さて前回まではPWCとアンダーセンの事務所設立とコンサル事業のさわりぐらいをご紹介しました。以前のブログでPWCアイビーリーグエリート、アンダーセンは嫌われ者の自信家という評価もあるという話をしました。そこでそれぞれの事務所を設立したメンバーの人となりを振り返ってみたいと思います。

 

Samuel Lowell Price (サミュエル・ローウェル・プライス)PWC設立者の一人

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wikipediaより(撮影時の年齢:不詳)

 

 プライスは、1821年にチャールズ・プライスの11番目の子としてイギリス西部の港湾都市ブリストルで生まれました。彼の父チャールズは18世紀末からブリストルで窯元事業をしていて、プライス家は1961年まで窯元を続けていたそうです。

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 会計士になる前のプライスの事を知り得る資料はほとんど残っていないようですが、彼の様相について親戚が言ったものが残っています。それによると、彼は背の高いハンサムな男だったということと、ベルベットのコートを着回していたということです。あまり参考になりませんが、コジャレた紳士だったのかもしれません。

 

 プライスは1842年(21才)から地元ブリストルのブラッドリー・アンド・バーナード会計事務所のロンドンオフィスで仕事を始めています。その時は年俸が120ポンド(現在の日本円で約600万円)のスタッフでしたが、5〜6年後にはロンドンオフィスの運営を任されていたと言われています。

 

 PWC設立時のもう一人のパートナーであるウォーターハウスが自身の回想録(日記)の中でプライスについて言及している部分があります。そこには「プライスに出会えたことはとても幸せなこと、彼の性格はとても尊敬できるし、彼は心の広いクリスチャンだ」と書かれていました。二人の年齢は20才も離れていることもありますが非常にリスペクトが感じられます。

 

 もう一つ面白いことをご紹介します。それはプライスがかなり血の気が多いヤバい奴だということです。ウォーターハウスによると、彼がプライスをリスペクトしていたのは会計士としてだけでなく、ボクシング選手としても最大の賞賛を持っていたと言ってます。プライスは喧嘩と見れば自分を抑えることができず、そこに飛び込んでいくような人でした。1880年代のフィニアン暴動*1の時期などには、彼は血まみれの状態で事務所に現れることが何度となくあったのです。まさに闘う公認会計士です。プライスだけを見ていると、スマートなアイビーリーグエリートとは似ても似つかない人物です。

 

 プライスは1887年5月19日にロンドンの自宅で66才で亡くなりました。

 

Edwin Waterhouse(エドウィン・ウォーターハウス)PWC設立者の一人

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wikipediaより(撮影時の年齢:左 66才頃 右 若いころ)

 

エドウィン・ウォーターハウスは1841年にリバプールのとても裕福な家庭の7番目の子(末っ子)として生まれました。父はニコラス・ウォーターハウス・アンド・サンズという会社で綿花事業を営んでおり、家族の雰囲気はおよそ貧困とは無縁な優雅で成功した中流階級といった感じだと思います。

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 例えば、ウォーターハウス家にはPWCを設立したエドウィンだけではなく、いやむしろエドウィンよりももっと有名な兄弟もいます。例えば一番上の兄アルフレッド・ウォーターハウスはイギリスではロンドン自然史博物館に代表されるようないくつもの有名な建築物を建てた建築家であり、他にも著名な法律事務所を設立したセオドア・ウォーターハウスもいます。

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(参考)ロンドン自然史博物館

wikipediaより

 

 エドウィンは高校までユニバーシティ・カレッジ・スクールで教育を受け、ロンドンのユニバーシティ・カレッジ大学で学びました。今の日本で言えば、慶応や青山学院で小中学校から大学まで学んだという感じでしょうか。金持ちのボンボンです。大学ではギリシャ語、ラテン語、英語、数学を専攻していたようですので、まだ会計の勉強はしていなかったみたいです。

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(参考)上:ユニバーシティ・カレッジ・スクール 下:ロンドンのユニバーシティ・カレッジ大学

wikipediaより

 

 大学で最終試験を受けるとき、エドウィンはこの先どうしようか悩んでいました。兄のアルフレッドは既に建築家としての地位を確立していたし、セオドアも弁護士になるための準備をしていました。気が迷ったのかそのタイミングから医学の道に進むことも頭をよぎりましたが、冷静になるとそれは無謀なことに気づきました。

 

 この数年後の1865年にはPWC設立のためサミュエル・ローエル・プライスとパートナーシップを結びその後100年以上続くプロフェッショナル・ファームの礎を築くとは、当の本人でさえ夢にも思わなかったでしょう。

 

 そんなエドウィンが会計の道に進むきっかけになったのはある一つの出来事からでした。ウォーターハウス家の知人に当時の会計士業界の重鎮であるウイリアム・ターカンドのご息女がいました。エドウィンの父は息子が会計事務所で少し仕事を経験できるよう手配し、エドウィンもそこでアルバイト的なことを始め、その経験が元で会計士を生業とすることが決まったようです。このときの経験がなければPWCは生まれなかったということです。

 

 ターカンドの会計事務所で3年程勤務した後、エドウィンは自分で事業をやりたいということをターカンドに申し出て事務所をやめてしまいました。1864年エドウィン22才のときです。

 

 ウォーターハウス家は裕福だったので、仕事を続けなくてもお金に困ることはなかったのでしょう。会計事務所を1月7日に辞めた後、2月24日までエドウィンは当時からリゾート地で有名な地中海のリビエラで休暇をとっていました。

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(参考)リビエラの写真 wikipediaより

 

 休暇後ロンドンに戻り事業を始めるエドウィンに対して、彼の父は2000ポンド(現在の日本円で約1億円!?)をエドウィンに与えました。なんて金持ちなんでしょう。

 

 父からの資金を元手に個人会計事務所を始めたエドウィンにもクライアントができ、仕事も波に乗ってきました。ちょうどその頃に、ターカンド会計事務所で一緒に仕事をしていたウイリアム・ホプキンス・ホーリーランドから誘いを受けました。そうです、サミュエル・ローエル・プライスと一緒にやらないかという誘いです。

 

 こうして1865年にプライスとウォーターハウスは出合い、PWC事務所が本格的に始まったのです。

 

今回はここまで。次回はアンダーセンです。

 

■おもな参考文献

『TRUE AND FAIR  A HISTORY OF PRICE WATERHOUSE』EDGER JONES

 

*1:アイルランド紛争に関係する暴動