コンサル物語

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コンサルの成り立ち、コンサルの歴史を知りたい人向けにコンサル誕生からの物語を書いてます

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一気に見せます!Big4ランキング(20世紀後半)

 さて、1946年のコンピューター時代の幕開けとともに、Big4もどんどんコンサル領域に進出していきます。コンサル物語もますます面白くなって行きますが、詳細な話に入る前に各年代のBigランキングを通してコンサル業界成長の概観を見ておきたいと思います。

 

 ちなみに、1989年のDeloitteとEYの誕生までは8つの大手会計事務所が存在していました。いわゆるBig8時代です。その後1998年のPWC誕生までは6大会計事務所の時代でした。Big8→Big6となりPWCの誕生でBig5という変遷です。その後2002年にアーサー・アンダーセンが消滅しその時点でBig4に落ち着いたという歴史になります。

 

 最初は、一度ご紹介しているランキングではありますが1932年版ランキングです。最古参のプライス・ウォーターハウスが断トツ1位で、ランキングはアメリカでの各社事務所設立年の順序とほぼ一致しています。

 

ビッグ8ランキング(1932年)

※NY証券取引所の監査クライアント数順

ランキング

会計事務所名

現Big4

米国事務所設立

監査クライアント数

1

プライス・ウォーターハウス

PWC

1890年

146社

2

ハスキンズ・アンド・セルズ

Deloitte

1895年

71社

3

アーンスト・アンド・アーンスト

EY

1903年

71社

4

ピート・マーウィック・ミッチェル

KPMG

1897年

56社

5

アーサー・ヤング

EY

1894年

49社

6

ライブランド・ロス・モンゴメリー

PWC

1898年

48社

7

トーシュ・ニーブン

Deloitte

1902年

27社

8

アーサー・アンダーセン

-

1913年

24社

参考資料:『闘う公認会計士

 

 次は1960年版ランキングです。(1940年代、50年代は情報が手に入り次第追記します)

 

 ビッグ8の中で最も後発で1930年代は後塵を拝していたアーサー・アンダーセンが大躍進し2位にランクインしています。この期間最もコンサル拡大路線を進めた会計事務所でした。

 

 そのアーサー・アンダーセンを抑えて1位になったのはピート・マーウィック(現KPMG)です。ピート・マーウィックの戦略は規模の拡大でした。この期間、中小の会計事務所をどんどん吸収し拡大していったという歴史があります。

 

 他社の猛追を受け、業界リーダーを自認していたプライス・ウォーターハウスの圧倒的存在感は弱まってきました。

 

ビッグ8ランキング(1960年)

※会計事務所(監査+税務+コンサル)での売上順

ランキング

会計事務所名

現Big4

売上

1

ピート・マーウィック・ミッチェル

KPMG

4500万ドル

2

アーサー・アンダーセン

-

4000万ドル

3

アーンスト・アンド・アーンスト

EY

3600万ドル

4

プライス・ウォーターハウス

PWC

3500万ドル

5

ハスキンズ・アンド・セルズ

Deloitte

3300万ドル

6

ライブランド・ロス・モンゴメリー

PWC

2800万ドル

7

アーサー・ヤング

EY

2600万ドル

8

トーシュ・ロス

Deloitte

1700万ドル

参考資料:『闘う公認会計士

 

 この時代の会計事務所のコンサル売上だけを集計するのは難しく、会計事務所全体での売上ランキングとなりますが、最もコンサルに力を入れていたアーサー・アンダーセンはこの時期売上の10%〜20%がコンサル部門が上げていたと言われています。上の数字で言うと、4000万ドルの10〜20%なので推定400万ドル〜800万ドルというところでしょうか。

 

 参考までにBig8会計事務所ではない要コンサル専門ファームの1960年の売上は以下の通りです。

 

アーサー・D・リトル 2300万ドル

ブーズ・アレン・ハミルトン 1200万ドル

マッキンゼー 670万ドル

A・T・カーニー 320万ドル

参考資料:『The World's Newest Profession』

 

 アーサー・アンダーセンの推定売上400〜800万ドルはコンサル全体でもトップ3に食い込む勢いがありました。

 

 続いて1971年版ランキングです。

 1960年と比べてあまり変動がないですが、Big8での売上規模は10年間で2.6億ドルから12.6億ドルに増えており実に4.8倍も拡大しています。

 

ビッグ8ランキング(1971年)

※会計事務所(監査+税務+コンサル)での売上順

ランキング

会計事務所名

現Big4

売上

1

ピート・マーウィック・ミッチェル

KPMG

2.2億ドル

2

アーサー・アンダーセン

-

1.9億ドル

3

アーンスト・アンド・アーンスト

EY

1.8億ドル

3

プライス・ウォーターハウス

PWC

1.8億ドル

5

ハスキンズ・アンド・セルズ

Deloitte

1.5億ドル

6

ライブランド・ロス・モンゴメリー

PWC

1.3億ドル

7

トーシュ・ロス

Deloitte

1.1億ドル

8

アーサー・ヤング

EY

1億ドル

参考資料:『闘う公認会計士

 

 次は1983年版ランキングです。

 Big8の売上はまたまた拡大。10年間で12.6億ドルから82.7億ドルになり、6.5倍に更に拡大しています。そして、1913年シカゴに事務所を設立してから70年、アーサー・アンダーセンがついにランキング1位に輝いています。

 

 この10年間で生き残りをかけたBig8と中規模会計事務所の合併がいくつかありました。80年代、90年代の大合併時代の予兆が見え始めています。

 

1973年 ライブランド・ロス・アンド・モンゴメリーとクーパース・ブラザーズが合併しクーパース・アンド・ライブランドとなり、ランキング3位に食い込む。

 

1978年 ハスキンズ・アンド・セルズとデロイト・プレンダー・グリフィスが合併しデロイト・ハスキンズ・アンド・セルズとなる。7位。

 

1979年 アーンスト・アンド・アーンストとウィニー・マリーが合併しアーンスト・アンド・ウィニーとなる。6位。

 

ビッグ8ランキング(1983年)

※会計事務所(監査+税務+コンサル)での売上順

ランキング

会計事務所名

現Big4

売上

1

アーサー・アンダーセン

-

12.4億ドル

2

ピート・マーウィック・ミッチェル

KPMG

12.3億ドル

3

クーパース・アンド・ライブランド

PWC

11億ドル

4

プライス・ウォーターハウス

PWC

10.1億ドル

5

アーサー・ヤング

EY

10億ドル

6

アーンスト・アンド・ウィニー

EY

9.7億ドル

7

デロイト・ハスキンズ・セルズ

Deloitte

8.9億ドル

8

トーシュ・ロス

Deloitte

8.4億ドル

参考資料:『アカウンティング・ウォーズ』

 

 いよいよ1990年版ランキングです。

 この10年の間についにBig8同士の合併がありました。2組の合併がありBig8はBig6になりました。

 

1987年 ピート・マーウィック・ミッチェルとKMG会計事務所が合併しKPMG設立

 

1989年 アーンスト・アンド・ウィニーとアーサー・ヤングが合併しアーンスト・アンド・ヤング(EY)設立

 

1989年 デロイトとトーシュが合併し、デロイト・トーシュ(Deloitte)設立

 

 実現こそしなかったものの、アーサー・アンダーセンとプライス・ウォーターハウスの合併計画も進んでいました。ただし水と油の両社では上手くいくことはなく、結局計画は頓挫しました。

 

 また、デロイト・ハスキンズ・アンド・セルズはトーシュ・ロスと合併する前、1985年にプライス・ウォーターハウスとの合併を計画し締結直前まで行きましたが、プライス・ウォーターハウス側が英国PWの反対で破談となったようです。

 

 20世紀前半程の存在感はなくなっているものの、まだまだプライス・ウォーターハウスと一緒になりたがっている会社は多いのが面白い。皮肉にも破談の結果、プライス・ウォーターハウスは最下位に落ちてしまったようです。

 

そしてもう一つ、長年に渡る社内内紛から、1989年ついにアーサー・アンダーセンは、会計サービスのアーサー・アンダーセンコンサルティングサービスのアンダーセン・コンサルティング(現Accenture)に分離しました。

 

ビッグ6ランキング(1990年)

※会計事務所(監査+税務+コンサル)での売上順

ランキング

会計事務所名

現Big4

売上

1

アーサー・アンダーセン

-

22.8億ドル

2

アーンスト・アンド・ヤング

EY

22.4億ドル

3

デロイト・トーシュ

Deloitte

19.2億ドル

4

KPMG

KPMG

18.2億ドル

5

クーパース・アンド・ライブランド

PWC

14億ドル

6

プライス・ウォーターハウス

PWC

12億ドル

参考資料:『闘う公認会計士

 

 さて、本日の最後は1998年版ランキングです。

 遂に最後の大合併が行われました。プライス・ウォーターハウスを射止めた(?)のはクーパース・アンド・ライブランドでした。PWCの誕生です。

 

 1998年 プライス・ウォーターハウスとクーパース・アンド・ライブランドが合併しプライス・ウォーターハウス・クーパース(PWC)となりました。

 

ビッグ5ランキング(1998年)

※会計事務所(監査+税務+コンサル)での売上順

ランキング

会計事務所名

現Big4

売上

1

アンダーセン・ワールドワイド

-

140億ドル

2

プライス・ウォーターハウス・クーパース

PWC

120億ドル

3

アーンスト・アンド・ヤング

EY

109億ドル

4

KPMG

KPMG

104億ドル

5

デロイト・トーシュ

Deloitte

90億ドル

参考資料:『https://www.company-histories.com

コンピュータ時代の夜明け

 プライス・ウォーターハウスに正式にコンサル部門(部門名はシステム部)ができたのが1946年でした。なぜ第2次世界大戦が終わった翌年というこのタイミングで部門が設立されたのか。1946年を中心に当時のコンピュータ状況を見てみたいと思います。

 

 歴史的な出来事として、この1946年には現在のコンピュータの原型モデルの一つが世の中に初めてその姿を見せました。マシン名ENIAC(エニアック Electronic Numerical Integrator and Computer)と呼ばれるそのコンピュータの落成式は、1946年2月にペンシルバニア大学※で行われています。このイベントをきっかけにアメリカのメディア、大衆は一挙にコンピューターというものに注目をしました。

 

ペンシルバニア大学

アメリカ合衆国東部、ペンシルバニア州フィラデルフィアにある私立大学。1740年設立。米国屈指の名門私立大学連合であるアイビー・リーグの1校であり、米国及び、世界を代表する屈指の名門大学として不動の地位を保っている。(Wikipediaより)

 

 落成式からさかのぼること3年前の1943年。ペンシルバニア大学ムーアスクールで電子式コンピューターの開発プロジェクトPXが始まっていました。陸軍での弾道計算を目的としたムーアスクールでのコンピューターの研究自体は、1940年前後から始まっていたようですが、計算スピードを高速化するために電子式を研究していくプロジェクトが1943年に動き出したということです。

 

(参考)ペンシルバニア大学ムーアスクール(Wikipediaより)

 

 そして、プロジェクト発足から3年後の1945年11月。ムーアスクールの当初の目的を達する前に戦争は終わっていましたが、ENIACはついに完成しました。

 

 ムーアスクールの地階の部屋いっぱいに設置された1台のコンピューターは、高さ2m40cm、幅60cm、奥行き60cmのラック型のユニット40台から構成された荘厳なものでした。

 

(参考)ムーアスクールの部屋の壁いっぱいに設置されたENIAC(コンピューター200年史より)



 完成から3ヶ月後、冒頭で書いた通り1946年2月にENIACは一般公開されました。そして同じ年の夏7月〜8月にムーアスクールはコンピューターに関係している科学者、数学者、技術者を集め、サマースクールを開催しています。ムーアスクール・レクチャーと呼ばれたこのサマースクールをきっかけに、世の中にコンピューターの研究が広がり始めたと言われているようです。

 

 コンサル物語として注目すべきことは、科学者や技術者を対象にしたこのペンシルバニア大学での落成式やサマースクールに、Big4(当時Big8)会計事務所のアーサー・アンダーセンが社員を一人送り込み最新のコンピュータ技術を習得させていたということです。

 

 このサマースクールに参加したメンバーの多くはその後コンピューターの研究開発に関わって行ったと言われていますが、当然ながらアーサー・アンダーセンの会計士達がコンピューター開発をするわけではありません。彼らは来るべき時代に備えたコンサルの種まきを進めていたのです。そしてそれは1950年代以後、確実に芽を出し実を結んでいくことになります。

 

 以上のように、1946年という年はコンピューターにとってエポックメイキングな年でした。コンピュータ時代の夜明けとなったこの年だからこそ、プライス・ウォーターハウスもコンサル部門を設立したのでしょう。

 

■おもな参考文献

『コンピューター200年史ー情報マシーン開発物語ー』(M.キャンベル・ケリー / W.アスプレイ 著 山本菊男 訳)

始まりはシステムコンサルだった。昔のBig4がコンサルティングしていた会計システム

 前回はプライス・ウォーターハウス(PWC)が組織として初めてコンサル部門を設立したことを書きました。1946年に組織として正式に設置されるまでは、コンサル事業への取り組みはあくまで監査部門が補完的に行っていた一業務に過ぎなかったと考えることができます。コンサル部門を組織図に書き込み、一年後ではありますが部門をリードするコンサルパートナーも置いたということで、会社としてコンサル事業に取り組んでいく強い意志が感じられます。

 

 会計事務所のコンサル参入に特に保守的だったプライス・ウォーターハウスが、新たな部門を設立してまで取り組み始めた当時のコンサルティングとはどういったものだったのでしょうか。設立した部門名「システム部」からもわかるように、プライス・ウォーターハウスが組織として正式に始めたコンサルはシステムコンサルティングでした。(会計事務所がシステムコンサルに注力していったという事実は、20世紀後半に会計事務所BIg4がコンサル業界で勢力を拡大していくにあたり非常に重要なポイントになっていきます。詳しくは別の回で書きたいと思います。)

 

 そこで今回はプライス・ウォーターハウスのシステム部がコンサルをしていた当時の会計システム事情について見ていきたいと思います。

 

 会計機・会計システムの簡単な歴史については以前触れていますが、本日はその続きという形で進めたいと思います。

 

consul-history.hatenablog.com

 

 特に2つの世界大戦を挟み1930年代から躍進を続け、後に20世紀コンピュータ産業の覇者となり、システムコンサルティングの分野で密接に関わるIBMは当時から注目すべき企業です。この会社についてみていきたいと思います。

 

 1924年にCTR(コンピューティング・タビュレーティング・レコーディング)から社名をIBM(インターナショナル・ビジネス・マシーンズ)に変えたトーマス・J・ワトソン率いるIBMは特にパンチカードシステムの分野で他社の追随を許さない圧倒的な存在になっていきます。1930年代にIBMが販売したカードは年間30億枚と言われ、会社売上の10%(利益では30〜40%)を占めていたようです。

 

 パンチカードシステムは電気処理で計算をする機械で、複数の穴の開いたカードを読み取りデータ処理をして結果を印字する仕組みになっています。カードにデータ変換される穴を開けるカード穿孔機(キーパンチ)、穴の開いたカードを読み取る分類機(ソーター)、レポートや集計を行い印字する会計機(タビュレーター)からなるものが一般的です。

 

(参考)IBM 029 キーパンチ(Wikipediaより)



(参考)IBM 082 ソータ(Wikipediaより)



(参考)IBM 400シリーズ モデル407会計機(Wikipediaより)



 1930年代、IBMは400シリーズという会計機シリーズを発表して他社を一気に引き離しました。特にタイプ405会計機はベストセラーマシンでIBM史上最も儲けた製品ということでその名を残しています。400シリーズはパンチカードシステムがコンピューターにその座を譲る1960年代まで生産が続けられていた驚くべきロングセラー製品でもありました。

 

(参考)IBM タイプ405会計機(IBM社ホームページより)

 

 このように、1930年代のIBM事務機器会社の中で頭一つ抜き出ており、その技術力や販売力の他社との差は1950年代以降のコンピュータ市場を支配する布石が既に打たれていたと言えます。

 

 参考までに、1935年にはIBMアメリカでの会計機シェアの実に85%を有していました。そこからは、当時のプライス・ウォーターハウスを始めとするコンサルの多くがIBM400シリーズ会計システムに関わるコンサルティング案件をやっていたと考えるのはあながち間違ってはいないと思われます。

 

 当時の会計システムのコンサル案件について想像してみましょう。こちらはパンチカードで仕事をしている典型的な事務所の様子です。(コンピューター200年史より)

カードの作成業務には多くの女性が雇われたということがあったようですので、この写真で女性が行っていることがカードの作成業務なのかもしれません。

 

 プライス・ウォーターハウスのコンサルタント経理業務への会計システム導入を支援していました。

 

今回はここまでです。1940年代以降の会計システムについては次回にしたいと思います。

 

■おもな参考文献

『コンピューター200年史ー情報マシーン開発物語ー』(M.キャンベル・ケリー / W.アスプレイ 著 山本菊男 訳)

プライス・ウォーターハウス(PWC)システム部

 1920年代から会計監査の独立性を強く主張し、会計事務所はコンサル事業に手を出すべきではないと言い続けていたプライス・ウォーターハウス(PWC)ですが、1940年代に入ってからのBig4各社のコンサル再開の動きを見てついに重い腰を上げ、本格的にコンサル事業を進めていく動きを取り始めました。

 

 以前、このコンサル物語で経営コンサルはシカゴで生まれたということを書きました。

 

consul-history.hatenablog.com

 

プライス・ウォーターハウスのコンサルもどうやら同じようにシカゴから発達したようです。シカゴ事務所のあるパートナー(共同経営者)はコンサル案件に関わるなかで、会社がもっとコンサル業務に取り組んでいくべきだと訴えていました。

 

 このシカゴからの声もあり、1946年についにプライス・ウォーターハウスは経営コンサルティングを専門に行う部門を設立しました。1849年ロンドンにサミュエル・ローエル・プライスが会計事務所を設立してから97年後、1890年にニューヨークに事務所を設立しアメリカ進出を果たしてから56年後のことでした。プライス・ウォーターハウス初のコンサル部門は「システム部(Systems Department)」と名づけられました。その部門名からは当時の会計事務所が行っていたコンサル業務の主たる内容が垣間見えます。

 

 ニューヨーク事務所にシステム部を設立したのはシカゴ事務所でコンサルをしていたジョセフ・ぺレジ(joseph pelej)という人物でした。ぺレジは第一次世界大戦後にアメリカに移住したオーストリア人で、プライス・ウォーターハウスに入社する前は工場で商品補充係として働いていました。会計とは全く無縁だったわけですが、会計士になったら週給100ドル※という高給取りも可能だということを知り、一念発起、会計士の資格を取るために通信教育で勉強を始めました。

 

 ※現在の日本円に換算するとざっくり40万円ぐらいと考えることもできます。

oshiete.goo.ne.jp

年収換算の場合、週給40万円×50週=2,000万円となります(高給!)

 

 ぺレジは通信教育を終えるとすぐに商品補充係を辞めて、プライス・ウォーターハウスのシカゴ事務所に契約社員として入社しました。会計士の仕事ではマネージャーとして勤務しシカゴでは「ダイナミックな営業マンで、特にシステム業務に長けている」と評判だったようです。ぺレジはシステム部門で大活躍し部門設立からわずか一年後の1947年にはパートナーに昇進しました。

 

 当時Big4のリーダー格だったプライス・ウォーターハウスでコンサル部門の立ち上げの中心を担ったぺレジは別格だったようです。彼が1980年に亡くなったときにはニューヨークタイムズ紙が彼の死去を報じ記事を掲載する程の人物になっていました。

 

(参考)ぺレジの死去を報じるニューヨークタイムズ紙(1980年9月17日)

右中段(白抜部分)に、「会計事務所プライス・ウォーターハウス社の元パートナーであるジョセフ・ペレジ氏が、日曜日、ニュージャージー州リビングストンの老人ホームで死去した」と書かれている

 

 ぺレジが1年でパートナーに昇進できたことからもわかるように、システム部の設置は大成功でした。ただし最初の頃はぺレジが一人でシステム部を切り盛りしていたようで、部門設置から3年後の1949年になってようやくシステム部のスタッフとしてマネージャーが一人配属されました。

 

 さらに業務拡大は続いたため、設置から7年後の1953年にはシステム部のパートナーも2人増えました。そのころにはスタッフ数も70人まで増え会計システム以外にもコンサル業務を拡大していたため、1946年のシステム部設置から8年後の1954年にはシステム部は「マネジメント・アドバイザリー・サービス(MAS)部門」と改称されました。

 

 プライス・ウォーターハウス(PWC)がコンサル部門を初めて立ち上げたときの部署名「システム部」は非常に適した名称で、この部門の仕事の75%は会計システムを扱うものでした。そして会計システムといっても技術的な部分は非常に少なく、システム知識をもったぺレジが一人いれば十分という程度のものでした。実際にシステム部にスタッフが補充されるまでは、普段は監査業務をしている会計士の手を借りてプロジェクトを進めていたようです。

 

 しかし、しばらくするとシステム部が扱う仕事は専門的な技術を必要とするものが増え、技術素人の会計士では手に負えないものになってきました。当時の会計システムはおそらくまだ電子コンピュータではなく、電気や機械式の集計機(タビュレーティングマシン)やパンチカードシステムが中心だったのでしょうが、それでも高度な訓練を受けたコンサルタントが必要になってきました。

 

 そこでプライス・ウォーターハウスは変化を起こしました。会計事務所として会計士の資格をもたない機械専門家を初めて採用したのです。1950年代初めのことでした。そしてその後も、エンジニア、オペレーションリサーチの専門家等を積極的に採用し始めました。ちなみに、Big4会計事務所の中で会計士以外のスタッフがコンサル部門で働き始めるタイミングとしてはPWCは意外に早く、コンサル事業を積極的に展開していたあのアーサー・アンダーセンでさえそれは1960年代に入ってからのことでした。

 

 このとき採用されたいわゆる、non-CPA(非ー公認会計士)の力を借りてプライス・ウォーターハウスは新しいコンサル業務を拡大していきました。それは例えば、オフィスレイアウト、資材コントロール、倉庫管理、在庫管理、生産管理といったものから、労働基準、賃金制度、マーケティングといった人事・営業側面のもの、数学を応用した損益分岐点分析、原価計算、統計管理、予算管理といったものが挙げられます。業務内容は一般的な会計システムの改訂や設計から、工場やオフィスのレイアウトの支援まで15種類に大別されていました。

 

 プライス・ウォーターハウスのシステム部がわずか数年でコンサル業務をこれほど拡大できた要因の一つには彼らが会計事務所だというメリットがありました。クライアントにとっては、それまで何十年と培われてきた会計監査の仕組みがあるため会計士の訪問には慣れていて、コンサルティングの依頼は経営コンサルティングのみを専門に行っている会社(マッキンゼーやブーズなど)よりもプライス・ウォーターハウス社のシステム担当者を使う方が安心だと考えていた、ということもあったと思われます。要するにプライス・ウォーターハウスからすると提案できる敷居が低かったということです。

 

 一方で、物事が急速に変化するときには何らかのひずみが起こるものです。最後にプライス・ウォーターハウスのコンサル部門で起こった問題について触れておきたいと思います。

 

 一つにはコンサル部門を支える人材の問題がありました。高度に技術的、科学的な性質を持つコンサル部門は、その業務内容や、新しい業務に対応できる人材の確保、人材の入れ替えなど、さまざまな課題を抱えていました。ニューヨーク事務所に設置されたコンサル部門はすぐにシカゴ、ピッツバーグ、サンフランシスコに地域事務所を持ちはしましたが、スタッフのほとんどはニューヨークに在籍していたため、地方案件となると出張のスケジュールが厳しいことが多く、それが離職率の高さに繋がっていた理由の一つとも考えられました。

 

 また、プライス・ウォーターハウスの社内では伝統的な監査部門と新興のコンサル部門がそれぞれに対して不満を持つ不穏な空気が漂っていました。コンサル業務の特性上、コンサルタントはクライアントに変化を求めることがあり、クライアントとの間に論争が起こることもあります。こういった側面は監査部門からするとクライアントとの関係を乱すもの、悪影響を与えるものと映ることがありました。また、コンサル部門からすると、自分達はまだまだ社内で弱い立場であり常に監査部門の意向に従う必要があるため、コンサル部門の成長が阻害されていると感じることがありました。

 

 そのような状況のなかプライス・ウォーターハウスが会社として下したのは、コンサル部門に対して慎重な姿勢を求めるものでした。つまりクライアントにはあくまで本業の監査中心アプローチを取ることでした。これは一部急進的な(アーサー・アンダーセンのような)会計事務所を除き、戦後の会計業界の現実を反映したものではありましたが、監査とコンサルの間にはどうにもすっきりしないものを残すことになりました。

 

■おもな参考文献

『ACCOUNTING FOR SUCCESS』(DAVID GRAYSON ALLEN / KATHLEEN MCDERMOTT著)

Big4会計事務所のコンサル再開

 1940年にはアメリカのコンサル会社は400社にもなっていました。マッキンゼーやブーズなどのコンサルファームが市場をどんどん開拓していたのです。一方、会計事務所のBig4各社は本業の会計発展に尽くしながら、自分達が退場した後のコンサル市場が急速に拡大していくのを横目に見ながら、コンサルを再開するタイミングを虎視眈々と狙っていたのでしょう。

 

 1930年代に一度コンサルから撤退したBig4会計事務所がその後どのようにコンサルを再開していったのか。

 

 その動きは戦時中に少しずつ起こっていました。それは第2次世界大戦中に起きた会計上の変化(例えば後のオペレーションズリサーチに発展していく、科学的、合理的に会計を変えていくもの)であり、Big4は軍の中で経験したこういった会計上の変化を、戦後民間企業に対して提供していくことができました。会計や事務の機械化を支援していくサービスをコンサルサービスとして提供していったということです。

 

 Big4のコンサル再開は各ファームの組織上にも現れてきました。

 

 1920年代までにほとんどのBig4がコンサルサービスを提供していましたが、それは独立した部門ではないことが多く、戦後になってBig4各社はコンサルサービスと銘打った独立した部門や部署を設立し始めました。

 

 例えば、アーンスト・アンド・アーンスト(EY)では、第2次世界大戦の数年前にスペシャル・サービス部門という部門を設立していますが、この部門は税務アドバイス経営コンサルタントを専門としていました。それが、1948年にはスペシャル・サービス部門はマネジメント・サービス部門に改編され、その名の通り、データ処理、オペレーションズ・リサーチ、組織・人事、会計・予算、マーケティングなどに関する知識や経験を、顧客企業に提供することを目的とするようになりました。ちなみに、マネジメント・サービス部門のおかげもあり、1940年から1949年にかけて、アーンスト・アンド・アーンストの売上は2倍以上になりました。

 

 会計事務所のBig4は伝統的にコンサル積極派と慎重派に分かれていることは以前書きましたが、上記のアーンスト・アンド・アーンスト(EY)やアンダーセンは積極派で、こういったグループの考え方は監査とコンサルのワンパッケージサービスでした。そのほうが良いサービスが提供できるし、それは顧客側も望んでいることだと考えていたのです。

 

 そんな積極派を1920年代から牽制し会計監査の独立性を保とうとしていたのが、業界のリーダーを自負するプライス・ウォーターハウス(PWC)という構図でした。ところが、さすがのプライス・ウォーターハウスもコンサル再開に向かうBig4各社の動きを制し、事業拡大のチャンスを逃すことは出来なかったのでしょう、1946年、ついにコンサル部門を設立することを決定しました。(PWのコンサル部門については次回以降詳しく触れたいと思います)

 

 今回は最後に、プライス・ウォーターハウスでさえもコンサル部門を設立するに至った時代の企業の様子について少し触れておきたいと思います。

 

 その一つに事務職の増加とそれに対応するための機械化の取り組みがありました。新しい税金や規制の導入で仕事量が増えたこともあり、1920年以降、アメリカでは事務職が爆発的に増加し1950年までに150%増加したという記録が残っています。同じ期間、工場労働者の増加が53%だったようですので、いかに事務職が急増したかが分かります。しかも増加のスピードは留まることなくさらに増え続けていました。

 

 そのような中、技術の発展を受け事務作業の機械化・自動化が進み、コスト削減と余剰事務員の削減が同時に行われていました。代表的なものにはタイプライター、事務用録音機、自動卓上計算機といった機械があります。そしてこれらは後に機械式からコンピュータに変遷していき、Big4のコンサルサービスの中心となっていくことになります。

 

(参考)事務用録音機「ディクタフォン」(Wikipediaより)



(参考)アメリカ、レミントン社のタイプライター(Wikipediaより)



 また、事務職の増加の裏では女性の活躍があったということが特徴でした。従業員の多くが戦争に徴兵され、必要な人員を確保できず対応に苦慮した企業も少なくなかったため、多くの女性が会計や監査に携わるようになり女性を専門職として採用する動きが活発になっていました。

 

 女性を積極的に採用した会社のひとつに、プライス・ウォーターハウスがあります。1943年の春、プライス・ウォーターハウスは、ノースウェスタン大学で会計と監査を学ぶ11週間の特別コースに、大学を卒業したばかりの女性を採用し始めました。このコース終了後、彼女たちはプライス・ウォーターハウスのシカゴ事務所に配属されました。さらに翌年の春には、シカゴとニューヨークの事務所に配属される女性を対象に、他の特別コースも開講されました。この特別な採用で、戦時中のプライス・ウォーターハウスの事務所では、会計スタッフの30%〜40%が女性だったようです。(しかし、戦争が終わると、ほとんどは男性に取って代わられ、再びかなりの数の女性が会計業界に進出するのは1960年代後半になってからでした)

 

■おもな参考文献

『ACCOUNTING FOR SUCCESS』(DAVID GRAYSON ALLEN / KATHLEEN MCDERMOTT著)

web.archive.org

コンサル会社も400社に。Big4居ぬ間に急成長したマッキンゼー、ブーズ

 さて、Big4が会計監査に精を出している間、コンサル業界ではコンサル専業会社が急速に成長していきました。コンサル各社は組織のホワイトカラーと最高経営責任者に狙いを定めどんどん進化し始めたのです。1930年から1940年にかけて、経営コンサルティング会社の数は、平均して年15%増加しました。1930年に100社程度であった経営コンサルティング会社は、1940年には400社になり、1940年代には年率10%近くで増え続け、1950年には推定1000社の経営コンサルティング会社が存在することになりました。

 

 コンサル物語でも出てきたマッキンゼー社とブーズ社の年表からコンサル会社の急成長を垣間見たいと思います。

1930年代前後のコンサル専業会社の年表

 

マッキンゼー&カンパニー

ブーズ&カンパニー他

1929年以前

1926年J・マッキンゼーマッキンゼー&カンパニー会計士・経営工学士事務所をシカゴに設立


最初の仕事は精肉会社の予算・計画業務のコンサルだった。当時は銀行その他の金融機関向けの仕事が多かった。

シカゴには他にE・ブーズがコンサル事務所を設立(1914年)。社名はビジネス・リサーチ・サービス社→ブーズ・ビジネス・エンジニアリング・サービス→ブーズ調査会社(1924年)と変わっていく。ブーズ社の初期の仕事は鉄道会社の事業調査や銀行調査の仕事が多かった。


当時は経営コンサルタントとは呼ばれず、経営エンジニアやビジネスカウンセラーと呼ばれていた。

1930年

A・T・カーニー入社

ブーズ社当時のシカゴのスタッフ数は4人に増加

1931年

   

1932年

ニューヨークに最初の支社開設。マッキンゼー社のレターヘッドは「公認会計士」から「会計士およびエンジニア」に変更される。

 

1933年

当時のシカゴのスタッフ数は13人に増加。

M・バウアー入社

 

1934年

 

当年シカゴに完成した45階建ての超高層ビルであるフィールドビルには多くのコンサル会社がオフィスを構えた。マッキンゼー(41階)、ブーズ(17階)、A・T・カーニー、フライ&アソシエイツ(ブーズから独立)など。


(参考)

当時のフィールドビル(Wikipediaより)


現在のフィールドビル(Googleマップより)



ブーズ社はブーズ&フライ調査会社に改名。当時のシカゴのスタッフ数は11人に増加

1935年

J・マッキンゼーは顧客であるシカゴのマーシャル・フィールド百貨店に会長兼CEOとして参加。またこの年、会計事務所のスコービル・ウェリントン社と合併。この頃からニューヨークオフィスでは会計監査の仕事を廃止した。

ブーズ社はニューヨークに最初の支社を設立

1936年

当時のスタッフ数はシカゴ22人、ニューヨーク17人、ボストン5人まで増加

この頃、鉄鋼業のUSスティール社が経営コンサルティング会社を積極的に活用したことは有名な話。主契約にフォード・ベーコン&デービス社、下請けにロバート・ヘラー&アソシエイツ社、マッキンゼー社といった名の通ったコンサル会社を使っていた。マッキンゼー社の担当は注文処理の改善コンサルだったが、当時のマッキンゼー社の売上の55%を占めるビッグクライアントだった。

ブーズ社はブーズ・フライ・アレン・ハミルトン社に改名

1937年

J・マッキンゼー死去(享年48才)

外部の専門家をコンサルタントとして会社に迎え始める。ハーバードビジネススクールの教授や大企業の幹部等がコンサルとしてマッキンゼー社に入社した。

 

1938年

ニューヨークとボストンのマッキンゼー&カンパニーとシカゴのカーニー&カンパニーに分割。マッキンゼー社の事業は経営エンジニアリングではなく経営コンサルティングに変更し、会計業務は提供業務から外れた。

シカゴにA・T・カーニー設立

1939年

当時のスタッフ数は18人

 

1940年以降

スタッフ数は1942年の25人から1945年には68人に増加

ブーズ社は初期メンバーの一人J・フライが抜けてフライ&アソシエイツ社をシカゴに設立(1942年)。ブーズ・アレン・ハミルトン社に改名(1943年)ブーズ社は海軍の再編成など政府機関へのコンサルを始める。

ブーズ社の初期メンバーであったクレサップ、マコーミック、ペイジットが抜けニューヨークにクレサップ・マコーミック&ペイジット社を設立(1946年)

 

■おもな参考文献

『ビジネスの魔術師たち』(ハル・ヒグドン 著 鈴木主税 訳)

『マービン・バウアー』(エリザベス・ハース・イーダスハイム 著 村井章子 訳

マッキンゼー』(ダフ・マクドナルド 著 日暮雅通 訳)

『The World's Newest Profession』(Christopher D. McKenna著)

業界リーダープライス・ウォーターハウスも見逃した世紀の大粉飾 マッケソン・ロビンス事件

 1910年代〜20年代に芽生え始めたBig4のコンサル第一幕は1930年代前半に終わりました。Big4はどこもしばらくの間、コンサル事業と引き換えに特権として与えられた監査業務に集中することになるわけですが、一度味わったコンサルの旨味は忘れられず、後に再びコンサル事業に足を踏み入れることになります。これがBig4のコンサル第二幕です。ただし、それが始まるまでに第二次世界大戦の終了とビジネスコンピュータ時代の幕開けまでの15年〜20年待つ必要がありました。

 

 今回から、第二幕開始までの業界の様子についていくつかの話を書いていきたいと思います。

 

 Big4会計事務所は1933年、1934年の銀行法・証券法等の成立により、コンサル事業を手放してもお釣りが来るほどの監査という特権を手にしました。一見するとウハウハのようではありますがそれほど生易しい状況ではなかったようです。

 

 例えばそれは当時の会計士に対する世間の風当たりにも表れており、狂騒の1920年代を謳歌していたアメリカ人は、大恐慌と株価大暴落への怒りの矛先を会計士に向けました。企業業績を見抜けなかった会計士達にこそ責任の一端があるということでしょうか、その不満は訴訟という形で現れることもあったようです。

 

 まだまだ企業側も十分な業績開示をしていなかった時代でもあり、統一した監査ルールもなかった時代でもありました。事態の改善を急いだPWCなどは行政機関とともに会計原則の作成にも多くの時間を費やしていました。

 

 そんな中起こったのがマッケソン・ロビンス社の粉飾事件です。

 

 マッケソン・ロビンス社は元々1833年にニューヨークで設立された薬と酒の製造をする普通の会社でした。90年間ほど創業一家により経営されていましたが、1920年代半ばに一人の男に100万ドルで会社は売却されました。会社を買ったドナルド・コスターと名乗る人物こそ、悪名高いイタリア人詐欺師のフィリップ・ムジカ ※ だったのです。

 

※ フィリップ・ムジカは1877年イタリアで生まれ、7才のときニューヨークに移住しその後リトルイタリーで育った。1938年のマッケソン・ロビンス事件の首謀者として最も知られており、有罪判決がほぼ確定した時には懲役を逃れるため1938年12月16日にピストル自殺をした。(Wikipediaより)

 

下の写真はムジカの自殺を報じる12月17日付のニューヨークタイムズ(一番左の人物がムジカ)

 

 事件の内容を簡単に言うと、架空の利益計上(売掛金)と資産の過大表示(棚卸資産)の帳簿不正事件です。1938年に明るみになるまで多年に渡り粉飾を続け、マッケソン・ロビンス社の会計監査を担当していたBig4最大の会計事務所プライス・ウォーターハウスも見過ごしていた汚点事件です。この事件は会計事務所がパブリックからのコメント・批評・判断を受けた最初の事件でもあり、この事件後には会計事務所が行う企業監査の中身が強化された、というのが一般的な事件の評価です。

 

 コンサル物語でこの事件を取り上げるのは、単にBig4の事件だという理由だけではありません。マッケソン・ロビンス事件によりBig4の仕事の質も変わってしまったという評価もあるからです。それは、粉飾を見抜けなかった当のPWC自身が分析をしています。前掲の『Accounting for Success』から引用します。

 

マッケソン・ロビンス事件は、実際、監査人の仕事の性質を変えました。(中略)マッケソン・ロビンス事件は監査において会計士が確認すべき範囲と内容を拡大し、監査人の内部統制の定義は、監査企業とその事業全体さらには経営方針のチェックまで含むようになりました。 会計システムの監査をするということは、監査人は自らをクライアントの事業運営の診断と問題の解決策を提案する立場に置かれていると考えました。監査改革とともに、会計士によって提供される今日の経営コンサルティングサービスの起源もまた、マッケソン・ロビンス事件が残したものだったのです。

 

 このように、会計士が財務諸表だけではなくその背後にあるビジネス手順までもを監査すべきという変化が起こりました。その結果として、会計事務所はより広範囲で顧客業務の調査を行うようになり、新しいコンサルティングサービスを生み出す機会につながって行きました。

 

■おもな参考文献

『ACCOUNTING FOR SUCCESS』(DAVID GRAYSON ALLEN / KATHLEEN MCDERMOTT著)